参加申し込み

市民セミナー報告書より

六甲山上の春はまだ兆し

 午前10時前に環境整備ボランティア8名がガイドハウスに集合しました。前月に続いて近畿自然歩道と二つ池環境学習林の樹木の新芽などの芽生えの様子を観察しました。天候は晴れで気温は8℃と温かでしたが、日陰には積雪が残り、表土が凍った所もありました。樹木の花芽はまだ硬く、二つ池はシャーベット状の氷に覆われていました。1ヶ月後に、アセビの花や春植物が芽生えるのを期待しました。

綿密なガイドブックづくりを進められた

 昨年の4月に、再度公園の森林整備事務所に副所長の坂田 正史さんをお訪ねして、神戸市の「出前トーク」で外国人墓地の講演をお願いしました。
 1年近くも経ちましたが、「一般公開で案内するような順序でお話ししたい」と、沢山のスライドを駆使して臨場感のこもった説明をされました。墓の主の史実を現場まで足を運んで検証されたことに、参加者が感銘を受けました。フランス兵を殺害して切腹を命じられた土佐藩士の話は圧
巻でした。また、居留地外国人が設立した会社や学校からも資料をされ、歴史秘話を紹介していただきました。
 今回の講演をきっかけにして、外国人墓地のガイドブックを整備され、「出前トーク」の枠を拡げられたようです。

躍動の明治時代にタイムトラベルした

 講演の冒頭は外国人墓地の成り立ちについての説明です。
日米修好通商条約の一環で、山手を好む外国人には不適な、居留地東の低湿地に小野浜墓地が設けられました。さらに春日野墓地が設けられ、昭和36年に一里山(再度山)に移転が完了しました。墓標は2700あります。
 続いて産業の近代化に貢献した居留地外国人が紹介されました。造船業のハンターさん、製紙業のウォルシュさん、神戸港を近代化したマーシャルさんとマルーマンさん。生活文化に影響を与えた人として、ラムネで有名なシムさん、女性宣教師のタルカットさん、パン洋菓子のフロイン
ドリーブさん、建築家のハンセルさんなど列挙にいとまがないほどです。
 後半は六甲山の緑化を踏まえて、六甲山を開発したグルームさん、外国人の六甲山登山を紹介されました。

外国人の創業の志に学びたい

 神戸外国人墓地の存在や居留外国人の活躍ぶりを知って近代日本の歴史に親しめた。小学生にも学ばせたいし、多くの人が墓地を見学して外国人の貢献を偲びたい。坂田さんに素晴らしい「出前トーク」をしていただきました。神戸市のこのような施策にも深謝します。

講演内容

講演の挨拶(坂田 正史さん)

 神戸市・森林整備事務所で市有林やハイキング道の維持管理、外国人墓地の管理などの仕事をしています。
 居留外国人が神戸の近代化に果たした功績を再認識していただくため、市民にもあまり知られていない外国人墓地を紹介します。

1.兵庫開港と外国人墓地のはじまり

■外国人墓地は再度公園にある

 外国人墓地には幕末維新後、神戸に来て産業近代化や文化・教育の発展に尽くした人々が眠っている。今は再度公園の一角にあり、面積は14ha、埋葬国61か国、墓標2700。数はイギリス、アメリカ、ドイツ、ロシアの順に多い。

■幕末の国際条約で設置された

 1858年の日米修好通商条約で兵庫開港と居留地、墓地の設置が決まった。幕府は外国人隔離の狙いから、港を兵庫津から遠い神戸村とし、1868年(明治元年)1月1日に開港した。開港
前年、安政の五ヶ国条約で外国人居留地が定められたが整備が間に合わず、生田川-宇治川間の山麓から海までの地に居住を許した。北野、山本通りに外国人が住みはじめた由縁である。
 開港式典のため神戸沖に集結していた米英の軍人4名が死亡し、約束通り山手に埋葬する要求があったが間に合わず、居留地東の低湿地である小野浜に墓地を設定し埋葬した。

■都市化により墓地を山手に移設した

 明治32年、居留地が日本に返還され、墓地は神戸市管理になった。小野浜墓地が満杯で、同年、春日野墓地を作った。ここは大阪湾を見下ろす高台にあり、ようやく外国人が望む墓地ができた。
 人口急増で墓地が市街地に囲まれ、外国人墓地も一里山(再度公園)に移転統合することになった。昭和12年着工、水害や太平洋戦争を越え、昭和36年に春日野墓地から移転完了した。

2.ラムネのシムさんと六甲山緑化の経緯

 神戸の産業や文化はシムさんを始めとする居留地外国人の影響を受けて発展し、六甲山開発や緑化につながる。外国人墓地に眠る方々を紹介する。

■居留地外国人が産業の近代化に寄与したハンターさん

ハンターさん:1865年に来日した英国人で、キルビー商会から独立して造船業で成功した。大阪安治川河口で大阪鉄工所を始め、後に日立造船になった。近代造船の先駆者といわれる。
マーシャルさんとマルーマンさん:英国人マーシャルさんは明治4年、兵庫県知事に乞われて初代神戸港長になった。六甲山が季節風を防ぎ、湾への大きな川もないことから神戸港は世界有数の港になると予言した。後任の英国人マルーマンさんは明治9年以来、港長24年で港や船舶の規則を設け世界に通用する港に仕上げ、外国人で初めて叙勲された。2人は神戸港近代化の父である。
 神戸で初めてパルプ工場を作ったウォルシュさん、炭酸水の工場を起こしたウイルキンソンさん
などの実業家も神戸の産業勃興に寄与した。

■神戸の生活文化も外国人の影響を受けたシムさん

シムさん:明治3年に英国から来て、香水、薬品、石鹸などの輸入販売をした。居留地の世話役を務めた。居留地が「東洋の理想郷」といわれるまで成長したのはシムさんのおかげである。明治18年には神戸で最初にラムネを販売した。ラムネはコレラに効くとされ繁盛したという。会社が居留地18番だったので18番ラムネとよばれた。
タルカットさん:米国からの初めての女性宣教師で、日清戦争の傷病兵を敵味方なく看護し、日本のナイチンゲールといわれた。板垣退助との対談で、めかけを囲っている板垣に対しすごい剣幕で女性蔑視と意見し、さすがの板垣も目を伏せた。慈愛に溢れつつ骨のある女性だった。
 明治8年、諏訪山の麓に「神戸ホーム」を作った。これが後の神戸女学院につながる。毎年5 月
に神戸女学院中等部の女生徒がお墓参りに来る。
ハンセルさん:明治21年に来日、神戸居留地でハンター邱、シュウェーケ邱等を作った。出征した息子の思い出が残る神戸に住むのに耐えられず、大正8年に離日。晩年はモンテカルロに住
み、山荘に「yama no kottege」と命名し神戸を偲んだ。そのyama は六甲山だったに違いない。
 居留地外国人は、海が見え六甲山を背にした神戸の街を愛し、神戸の文化に影響を与えた。

■伝染病が契機となった六甲山の緑化

 明治以前、六甲山は禿山だった。神戸では井戸水を使っていたので衛生環境が悪く、明治10年代は毎年夏に、コレラ、チフスがはやった。神戸市では水道施設のため布引ダムを作った。大雨で土砂がダムに流れこみ、水源涵養、土砂流出防止の目的で明治35年に植林を始めた。土を保持するために等高線に沿って人力で石積みをした。石垣は再度山に今も残っている。
 こうして、六甲山は禿山から神戸を特徴づける緑の山となった。

3.六甲山レクレーションと居留外国人

■外国人の六甲山登山が毎日登山を生んだ

外国人が六甲山に登りはじめた。また、北野や山本通りに住んでいた外国人が出勤前に布引や
再度山に登った。それを日本人がまねて今日の「毎日登山」ができた。当時、再度山には善助茶
屋があり、朝メニューに紅茶、トーストが出て、そのハイカラさにひかれて登る人も増えた。
 明治以前の日本人には登山の習慣はなかったが、外国人の影響をうけて明治末から昭和初期にかけて多くの登山団体がうまれた。かくて、六甲山は近代登山のメッカとされるようになった。

■グルームさんの六甲山避暑地開発

 奥さんから狩猟は殺生と言われ、悔いて市民のためにと六甲山を開いた。明治28年、三国池に山荘や登山道を建設し、開発の魁となった。
 明治34年、六甲山頂にゴルフ場を作った。翌々年には初のゴルフクラブ・神戸ゴルフクラブを作
った。アップダウンが激しくキャディが重要だった。キャディは唐櫃や住吉の子供たちが務め、そ
の中から日本初のプロゴルファーがうまれた。

質疑応答

団体を除いて来訪者の数は?:お盆、お彼岸、年末は多いが、それでも1日20組くらい
見学するには?:4~11月の第4日曜が一般公開。毎月10日までに申し込んでほしい。

まとめ(坂田さん)

 神戸市はデザイン都市として、個性や文化を大切にした都市づくりをしている。そのために、神
戸の個性形成に大きな役割を果たした六甲山の歴史、神戸の文化の起源といわれる居留地外国人の歴史を再認識して、街づくりに生かす必要がある。このセミナーがお役にたれてばと思う。外国人墓地をぜひ目でみていただきたい。

事務局から

 外国人墓地に眠っている彼らがなぜ神戸に根を下ろしたか、その秘密が六甲山と海を擁する神戸の風景だったことが分かった。一度ツアーを組んで外国人墓地を訪れてみたい。