参加申し込み

市民セミナー報告書より


午前中は「森と歴史の散歩道」を散策

 朝の気温は16℃、小代さんなど8名で、「散歩道」を散策しました。まちっ子の森で景観整備や花芽の成長状況を観察し、山道の整備状況も確認しました。午後のセミナーには14名が参加しました。

「市民が主導するまちづくり」の歴史研究家

 2月の行政主催の森林整備に関するフォーラムで、博士論文をいただいたのがご縁です。小代さんは建築学科で建築の歴史や都市の歴史を研究し、昨年博士号を取得され、大学の研究職の求職活動もされています。「六甲山の茶屋」と「明治の市民まちづくり」の言葉に惹かれ、講演をお願いし、素人向きに話していただく注文もしました。

六甲山の茶屋の保護と再活用を目指す

 冒頭で、「文化財を学者が率先して選定するだけでなく、地域の住民が日常生活からなくなって欲しくない歴史的なものをみなで守ることが大事だ」と言われました。

 講演の話題の一つ目は明治期の神戸で行われていた「市民まちづくりの様子」、二つ目は新神戸駅北側の布引遊園地の開発が日本の近代公園の誕生につながったこと、三つ目は、布引茶屋で取り組まれている事例紹介です。

 まず、150年前の神戸開港時の居留地と外国人の様子の基本情報です。雑居地は日本一広く、居住する者が多いなど、神戸で外国人の主体的な都市整備活動が可能になった背景を説明されました。

 神戸では居留地外国人が自治機関を長期にわたって運営し、公共施設用地を次々と借用していきました。中でも、東遊園地の整備は、外国人が明治政府との交渉を続けたという意義深い活動でした。

 同じ頃に日本人が主導した公共公園の整備として、布引遊園地の経緯が紹介されました。神戸港の名主らが「花園社中」を設立し、「公遊花園ノ地」(公園)として官林の下
げ渡しを受け、私設公園として開園しました。これに関わった兵庫県知事の神田孝平の発想が近代公園制度の原点になっていると述べられました。神戸では、住民の都市整備への積極的な関与が大きな役割を果たし、東京や横浜と違った形で日本の近代化に貢献したと結論づけられました。

 次は研究成果を踏まえて取り組まれている、布引雄滝(おんたき)茶屋に関わる活動です。100周年記念会に合わせて、建物の調査図面を取ったこと、そして建物の変遷に
ついても解説されました。そして改修計画を作って、出資者を集めている現状を紹介されました。その後、参加者と気の置けない意見交換をしました。

市民が地域の環境や生活文化を復活する

 歴史研究を背景に詳しく話されたので、神戸の住民が「市民まちづくり」を主導した様子を知りました。近代公園制度の原点になっていることに、神戸の先進性も感じました。
市民の自治活動で「茶屋の保存・復活」に取り組まれるのは、将来につながる大きな構想だと期待しています。

講演の経緯(小代 薫さん)

■「みんなの」をキーワードにお話します

 明治期の神戸をフィールドにして、市民が主導するまちづくりの歴史を研究してきました。歴史を踏まえた地域づくりのための建築コンサルタントのような活動を行っています。

 存続の危機にある六甲山のお茶屋の保護と再活用を目指しています。

講演内容

1.明治期の神戸の「市民まちづくり」

■「市民まちづくり」は150年の歴史

 「市民まちづくり」とは最近の造語で、住民が主導する住環境や生活環境の整備を指す。神戸では、明治期の居留地の外国人や日本の民間企業が行った都市整備の中に同様の現象が見られる。神戸の市民まちづくりの歴史は、全国でも最も長く、約150年の歴史がある。

●居留外国人が都市整備を主導:1868年の開港の頃、横浜では、主に政府主導で居留地の整備が行われた。神戸では、居留地外国人の自治権が認められたことや、日本人と外国人が混ざって居住する雑居地を持ったなど、一般の居留地外国人が都市整備を主導する先進的な試みが行われた。

●居留地と雑居地の面積は日本一:居留地は外国人専用、雑居地は内外人が雑居。日本人住民との家屋・土地の借用も認められた。神戸雑居地は、755,903平方㍍で日本一の広がりがあった。

●居留地会議が中心となって都市整備事業:外国人の自治機関として「居留地会議」があった。神戸では居留地返還まで33 年間、良好に維持された。外国政府の代表者である領事と住民の代表者が一つのテーブルを囲んだのは、当時世界に例がないといわれた。居留地整備資金を自由に采配し、提案から決定まで行った。

■居留地外国人の東遊園地の整備

 1872年4月にスポーツクラブのメンバーらが、東遊園地を自費で整備する許可を居留地会議に求めた。日本側の制止に対して、4か国の領事から東遊園地用地の引き渡し要請が外務省に送られた。相当の地代を取ることを条件に貸与が許可された。さらに無償での貸与と管理運営の権限を求めた交渉が3年近く続けられた。

●自治活動による居留地整備:整備費用の不足分を募金でまかなった。公共の道路の上に、私的なクラブによる陸上施設が計画された。公共とプライベートな部分が一体になった、現代から見ても興味深い計画だった。

2.布引遊園地開発と近代公園誕生の秘話

■布引遊園地

 外国人との間で東遊園地の交渉が行われているとき、日本人においても住民が主導する形で公共公園の整備が行われていた。

●「花園社中」を設立:1871 年、神戸港の名主らが、その景勝地に神戸の住民のための神社を造営したいと兵庫県に願い出た。自然環境を求めて進出を目論む外国人が問題となっていたので、この提案が受け入れられた。神戸港名主らは、民間企業「花園社中」を設立し、行楽地の整備を行った。

●「公遊花園ノ地」から「公園」:兵庫県知事神田孝平は、花園社中から要請された官林を「公遊花園ノ地」(公園)とし、無償に近い価格で払い下げ渡すよう大蔵省に要請し、許可された。そして、私設公園として開園することになった。

 公園という概念がない中で、住民らが景勝地に対して、神社の造営を求め、周囲の境内地を行楽地とするスタイルは、信心半分遊山半分といった日本の旧来の習慣と地続きで、興味深い。

●県知事神田孝平の発想が原点:神田は、この地を公園という租税地とすることを大蔵省に提案して許可されている。神田の、この読み替えの発想こそが、日本の近代公園制度の原点であったと考える。

■内外2公園の制度化と日本の近代公園制度

 雑居地における東遊園地園と、布引遊園地の制度化と日本の近代公園制度の成立時期は、ちょうど重なっている。日本の近代公園制度は、1873 年に明治政府の太政官より布告された。これにより全国主要都市にある日本古来の景勝地や寺社境内地、城址などの遺構が公園と読み替えられ、多くの緑地が保護され、有効活用された。

●神戸雑居地の居留外国人が公共施設を整備:神戸雑居地では一般の居留外国人たちが、各種クラブやメディアを通じて、公共の施設の整備を進めた実態があった。

●日本古来の遊楽の場が近代公園制度として継承:自治行動は神戸の日本人の間でも見られた。彼らが求めた日本古来の遊楽の場は、外国人から影響を受けた神田孝平による読み替えを経て、明治政府によって日本の近代公園制度として継承されることになった。

3.布引雄滝茶屋の100 年と今後の取組

■布引雄滝茶屋の100年

 雄滝茶屋は昨年創業100 周年を迎えた。「布引の滝に感謝する会」が編集した記念誌に原稿を書いたのがきっかけで、建物の調査図面を取ってパネルにした。

●明治期:布引遊園地は明治初年に物見遊山の和風行楽地として開園。明治7年の錦絵に様子が現れている。桜梅が植樹され茶屋が複数確認できる。雄滝茶屋は明治末に営業を始めたそうで、今となってはこの当時の行楽と建築の様式を伝える現存唯一の茶屋だといえる。

●大正期:石垣を築き柱を建て地面から高く上がった所に座敷と濡れ縁を作る建築形式。滝や周囲の自然とともに、しっかりした飲食も楽しめる施設であった。

●昭和期:客用座敷がなくなり、濡れ縁が室内化し、ハイキング向けの軽食が中心になった。時期的には六甲山山上地区の大規模レジャー施設の盛況やハイキングが流行しだした頃。物見遊山の茶屋から近代登山の休憩所としての用途変容が見られる。

●平成期:空調完備の部屋ができた。物見遊山の茶屋から続く伝統的な屋内飲食施設の再来で興味深い。

■雄滝茶屋の保存活動

 100年の風格を表現する建物を、このまま腐らせるのはもったいない。文化財としてきれいにし直す提案をした。たたかれ役の役回りだが、皆さんの文化財一号ができつつある感触を得ている。

●改修計画のポイント:外観を変えない、本来の用途にできるだけ戻す。大正時代の縁側をお客さんに開放して、改修費用を捻出するための収益部門を作った。50~100名限定の会員専用スペースにして、年額5万円程度の利用料を頂く。資金援助する篤志家が共同利用できる別荘のように使えるようにすることを考えた。

●出資者による公益活動:利用料5万円の使い道は、公益活動という枠の中で出資者の自由な提案と決定に任せる。出資者が主体的に公益活動を行えるしくみづくり
も行う計画である。

意見交換

◆岡:雄滝茶屋は立派、古いのですか?
● 小代:今残っている建物は明治末の築。しかし明治初年にはすでにこの場所に茶屋があったのではと考えている。
◆松岡:博士論文の近代公園制度で新説とされたのは?
●小代:近代公園の父は井上大蔵大臣がだといわれるが、背景には神田県令の読み替えがあったこと。
◆兼貞:お茶屋さんじゃなく、「六甲山の茶店」の話だと思って来た。(茶屋と茶店の違いが話題)
●小代:六甲山には両方ある。比較的しっかりした料理を出す物見遊山のお茶屋さんから始まり、ハイカー相手の茶店へと移行していく。京都のお茶屋さんとも峠の茶店とも、アルプスの山小屋とも違う。どこにもない独自なものになっている。
◆松岡:「雄滝茶屋に感謝する会」の保存活動なのか?
●小代:僕が独立してやっている。会には協力を求める。

小代さんのまとめ

 こういう場でお話しできたことが僕にとっては大きな一歩です。これからもこういう活動をいろんな所で、いろんな方としていきたいと思います。何でもいいのでご協力いただければありがたいです。お茶屋さんにちょくちょく行くとか、そんな所から大きなものに広がっていけばいい、そんな風に考えています。

事務局から

 かつて山上には500mごとに茶店があった。山麓には毎日登山の伝統が生きており、茶屋も残っている。モータリゼーションの普及もあって、「歩く文化」を支えてきたものが根こそぎ変質している。

 一般に、古いものを保存・復活するより、新しいものを作る方がてっとり早いので、そちらに走りやすい。小代さんが復活しようとするエネルギーは貴重だ。