第86回 神戸の坂本龍馬伝
高知県人土陽会は創立80年、神戸と高知にささやかな架け橋をかけたいとい考え、7年前より龍馬IN神戸をテーマに色々な企画をしてきました。
坂本龍馬は勝海舟が開設した「神戸海軍操練所」「神戸海軍塾」の開設に携わり、「ミナト神戸」の礎を築きました。神戸での坂本龍馬の活動を多くの人に知ってもらいたいと思います。(津野)
NHKが放映している「龍馬伝」が、ちょうど神戸での活躍ぶりを紹介しているころでしょう。高知出身の牧野富太郎博士がはげ山の六甲山を見て、雪が被っていると言われた有名な話があります。龍馬さんはどんな六甲山を見たのでしょうか?(事務局)
| 開催日時 | 2010年5月15日(土) 13:00 |
|---|---|
| 会場 | 六甲山自然保護センター |
| 講師 | 津野 伸一(神戸高知県人土陽会 副会長) |
| 詳細 | 報告書抜粋PDF |
午前中に第8回総会を開催
六甲山上は晴れわたり、記念碑台入り口の御衣黄(ごいこう)桜は満開でした。午前10時~11時45分で、六甲山を活用する会の第8回総会を終えました。
ガイドハウス駐在のコーディネーターの方から、アセビ調査区の辺りで野生のリスを見た報告をいただきました。
神戸高知県人土陽会を盛り上げる津野さん
講師の津野さんには、新聞に掲載された「龍馬甲子園2010」を見て、市民セミナーの講演をお願いしました。「龍馬さんへの手紙」の案内も会員に送付しましたが、応募は1通だけでした。全国各地から200通の応募があり、試みは成功したとのことで安心しました。
津野さんは中学からトロンボーンを演奏し、明石高校OBで吹奏楽団コンクール日本一を経験されています。「楽器を持てば上がらないのだが・・・」と言いつつ、エンターテナーの面目躍如のお話しぶりでした。
「神戸高知県人土陽会」は80周年を迎え、「龍馬検定」など坂本龍馬に由来した活動で活性化しています。NHKの大河ドラマの前からやっていると自負されました。
改めて坂本龍馬の偉業を知る
講演の冒頭で、ご自分の姓の津野氏が土佐七雄と呼ばれる豪族であったこと。関ヶ原の戦い後に長宗我部が所領を没収されて山内家が入り、長宗我部の家臣は下士として抑圧された歴史を話されました。
坂本龍馬は神戸で勝海舟に出会って、神戸海軍操練所を設立に奔走しましたが、2年ほどの活動がその後の龍馬の行動の基となる、貴重な体験であったと推定されました。
また、海軍をつくる背景には、坂本龍馬が少年時代から浦戸湾を行き来して、継母の実家で世界地図に馴染み、砲術にも必要な理数系の能力も備え、先見の明や素質の豊かさなどを説明されました。大政奉還を実現した坂本龍馬の本領は、異質なものを結びつける大局観や柔軟な態度であることを事例で紹介されました。
龍馬を殺害した犯人を質問され、「誰に殺されてもおかしくない」と、目先の利害に拘泥しない存在を強調されました。
「死ぬまで好奇心」に共鳴しきり
大阪湾を見下ろす六甲山上で、明治維新の動乱を駆け抜けた坂本龍馬について意見を交わしました。津野さんのお話しから「好奇心」を持ち続けることを啓発されました。
講演内容
講演の挨拶(津野 伸一さん)
高知県人土陽会は40年前に高知県人会と土陽会が合体してできました。土陽会は鈴木商店の大番頭、金子直吉に由来する由緒のある会です。昔はハイソな会でしたが、今は土佐の皿鉢(さわち)料理を囲んでいっぱい飲もうという会です。土佐を神戸に広めるにはやはり龍馬しかないかということで、6年ほど前からシンポジウムをやっている。決して大河ドラマに便乗した会ではございません(笑)。
1.土佐の維新のきっかけ
■お家騒動で土佐に山内家がやってきた
四国は、平家に代表されるように、中央での争いに敗れた人たちが逃れたところでもある。
私の姓―津野氏は土佐七雄と呼ばれる豪族だった。長宗我部元親が土佐を統一すると、津野は元親の三男を受け入れて一族の命運を保った。
関ヶ原の戦い後、元親の三男がいた津野で長宗我部家の継承騒動が起きた。長宗我部家は国を取り上げられ、山内家が入ってきた。
■山内家の抑圧が維新のパワーになった
山内家は自分の家臣を上士、旧長宗我部の家臣を下士として区別し、下士を抑圧した。
下士は傘もさせず、下駄も履けなかった。上士は下士を斬っても罪に問われなかった。維新のパワーの源には、抑圧に反発する下士のエネルギーがあった。
■龍馬はなぜ海軍に入ったのか
龍馬の継母の実家の川島家は、土佐の浦戸湾にある物産問屋だった。川島家には「ヨーロッパさん」というあだ名の川島猪三郎がおり、龍馬は幼少から世界地図を見せてもらっていた。また、湾岸警備の大砲にも親しんでおり、試射をさせてもらっている。あまり取り上げられないが、龍馬には海軍に入る資質が備わっていた。
2.「ミナト神戸」の礎を築いた人たち
■特異な幕臣、勝海舟
勝海舟は幕臣だが、幕府の敵か味方か分からない特異な存在だった。
神戸の海軍操練所ができる3年前には、長崎海軍伝習所ができているが、勝はひとつも勉強せず、オブザーバ的な存在だった。伝習所にはほとんどおらず、愛人のところに入り浸りだったという。
■龍馬と勝海舟の出会い
勝は回顧録で、自分を斬りに来た龍馬を説得して弟子にしたと言っているが、これは脚色だろう。
龍馬が松平春嶽に紹介状を書いてもらったとも言われているが、龍馬の通う道場の千葉重太郎と勝海舟は親しかったので、龍馬は簡単に勝に会えただろう。
■海軍をつくろう
勝は日本を守るために、砲台をつくり、海軍で外国に対抗しようと主張した。一大開国を唱えて、海軍の志を持っている者を誰でも受け入れた。
勝が将軍家茂に直訴して、神戸海軍操練所ができた。勝は操練所とは別に、三宮神社の近くに勝塾という私塾を開いた。幕臣は操練所に送り、志ある者は勝塾で引き取った。勝塾は100~200人規模で、坂本龍馬は塾頭的な立場だったらしい。
■神戸操練所は2年でなくなった
神戸操練所は、池田屋騒動で雲行きが怪しくなり、勝には中央から召喚状が来ると、神戸操練所は2年でなくなってしまった。龍馬はその後、西郷隆盛のバックアップで、長崎に移って亀山社中をつくる。亀山社中は土佐系の船乗りの集団で、現代に置き換えれば、凄腕のIT集団といったところだろうか。
操練所の建物はイギリス領事館に用いられ、その後は解体されて市内の小学校に使用された。
■勝塾の若者たち
勝塾の若者たちは、袴を短く履き、髪はぼうぼうで闊歩していたが、悪さはしなかったという。
その頃の神戸村は100戸程度。今の繁栄からは想像もつかない。龍馬は湊川神社にもお参りに行ったり、舞子の砲台に行ったりしている。
■龍馬は一番良いときに死んだ?
明治の偉人も晩年晩節を汚した人が多い。伊藤博文は天皇陛下が忠告したぐらい女に弱かった。
龍馬ブームは日露戦争の頃、田中光顕の宣伝からはじまった。やがて海軍の祖として扱われるようになった。桂浜にある龍馬像の除幕式でも自衛隊の巡洋艦が来ていた。
3.「龍馬甲子園2010」の試み
■今の時代にも龍馬の力がある
龍馬は不思議な男。我々のようなちっぽけな県人会でも6回に渡って「龍馬in神戸」を開催していて、多くの人が参加する。100人以上参加することもある。龍馬の格好をした人が毎回数人はいる。今の時代にも龍馬の力がある。
■龍馬甲子園2010
「龍馬甲子園2010『龍馬さんへの手紙・一筆啓上仕候』」というイベントを開催した。去年の4月ぐらいから懸命にPRしてきたが、なかなかメディアが取り上げてくれなかった。NHKで龍馬伝が放送されることになり、神戸新聞に掲載された。
龍馬への手紙は、約200通届いた。北海道の浦臼小学校からは16人が手紙を書いてくれた。その中から小学生の部の大賞が選ばれた。
質疑応答
武市半平太と龍馬はどっちが高知県人らしい?:
武市半平太は真面目で、非常に優秀な男だったらしい。一方、龍馬はええかげん。土佐の会合に行くと、最初は半平太のようにカチンコチンだが、酒が一杯入るとわやくちゃになる(笑)。龍馬の方が土佐の理想に近いのではないか。
龍馬暗殺の真犯人は?:
に斬られてもおかしくない状況だったようだ。龍馬と一緒に斬られた中岡慎太郎が、犯人について何も言っていない。だから私は土佐藩じゃないかと思っている。
龍馬の旅費や食費はどこから出た?:
本家の本家の才谷屋は豪商だったので、そのお金だと思う。父にもらった刀の鍔を売ってお金を工面したこともあるようだ。
まとめ(津野さん)
龍馬は国もなければ財もなく、行動するしかなかったと思います。勝は龍馬を「なんか威厳のあるいい男だったよ」と評しています。龍馬には親しみやすく、人を捉えて離さない魅力があったのだと思います。
龍馬は対立するものを組み合わせて昇華します。武市半平太を切腹させた後藤象二郎と恨みを越えて手を結び、対立する薩長を結びつけ、戦争を避ける手立てとして大政奉還を思いつきました。与えられた材料からオリジナルの道を編み出すことが龍馬の存在価値だったのでしょう。
事務局より
津野さんは龍馬を語りながら自分の励みにもされていると実感しました。30年余りしか生きてなかった人が明治前後に存在し、その異才ぶりは今も生き生きと蘇り、感動を与えてくれます。
龍馬は六甲山に登ったはずだと思い、このセミナーを実現し、有意義な時間を過ごしました。
六甲山を活用する会事務局
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