第131回 六甲山開発史 バージョン2 【内容】●昭和初期の六甲山~開発競争 ●戦後の六甲山 ●国立公園化以降の六甲山 2006 年、100 回前の31 回で「六甲山開発史」として、戦前にはまるで早慶戦そのままといわれた「阪神・阪急の開発競争」を中心にお話ししました。その直後に、まさかの阪神・阪急ホールディングスが誕生し、六甲オリエンタルホテルは閉鎖。今年も間もなく六甲山ホテルも阪急の経営ではなくなります。今こそ、六甲山の開発における原動力を振り返っておくことが必要ではないでしょうか。今回、31回の内容を拡張し、六甲山の開発を俯瞰してみたいと思います。
開催日時2017年8月19日(土)10:00~15:30
会場六甲山自然保護センター
講師森地 一夫 もりち かずお
詳細 チラシPDF 報告書抜粋PDF

市民セミナー報告書より

8月19日(土)に第131回市民セミナーを開催しました。

第131回テーマ

六甲山開発史

バージョン2

  • 昭和初期の六甲山~開発競争
  • 戦後の六甲山
  • 国立公園化以降の六甲山講師:森地一夫さんプロフィール1960年生まれ。関西学院大学理学部卒業、神戸大学大学院理学研究科数学専攻理学修士。コンピューター・ソフトウエア会社に勤務。小学校よりボーイスカウトに入り六甲山をハイキングしてきた。現在、日本ボーイスカウト兵庫県連盟・県連盟コミッショナー。ホームページ「祖父の見た六甲山」を開設。
  • 実施日:平成29年8月19日(土)午前10時~ 15時00分場  所:六甲山自然保護センター、記念碑台・散歩道
  • 自然体験に21名が参加快晴で、午前中の自然体験会に21名が参加。まちっ子の森のササ刈りと、散歩道モニターの2班で活動しました。午後のセミナーには28名が出席し、聴講に集中しました。「祖父の見た六甲山」を軸足にした森地さん森地さんは絵葉書などの資料収集と併せて、「祖父の見た六甲山」のホームページも有名です。今回は、戦前・戦後の六甲山で祖父の高岡 勇氏の活躍ぶりも紹介されました。高岡氏は戦前に六甲登山ロープウエイに勤務し、戦後は六甲山ホテルの支配人をしながら、自治会などの活動をされた。昭和24年に唐櫃小学校の六甲山分校の開校に関わり、初代のPTA会長を勤め、昭和30年には7年越しで六甲山之碑を再建された。昭和30年に六甲山経営株式会社で阪急六甲のタクシー会社や住宅経営・販売など、一手に山上の開発を担われるなど、戦後復興期の立役者の一人だと思われます。外人村から現在まで120年を俯瞰した

    パート1は「六甲山の外人村」として、グルームさんの時代から現在までの120年の歴史を俯瞰したいと、話を始められた。明治28年にグルームさんが三国池の傍らに別荘を建てたのが始まり。あちこちに別荘を造って居留地の外国人を誘い、どんどん仲間が増えて外人村の様相になった。唐櫃道とアイスロードが交叉する前が辻が中心地で、郵便局や下村茶屋があった。明治44年の大阪朝日新聞に大江 素天が署名記事を書いている。籠で登って、外人村にあったグルームさんの家に泊めてもらい、六甲山の見聞を紹介した。このころから六甲山上にある外人村が一般の人に知られた。

    それ以前の六甲山は里山みたいに使われていたが、下から見ると単なる禿山だった。神戸開港で居留地ができ、外人が入ってきて、神戸港からこれほど近くに1,000m近い山があるのは珍しく、ちゃんと目を付けた。山の上で何かしようという発想は外人さんが思いついた。別荘に住むだけでなくいろんなスポーツが行われた。日本で最初にゴルフ場が発祥した。スキー・スケートも山の上で行われた。登山・ハイキングも外人さんが道を開拓して、日本人が真似て歩いた。山を歩くという文化ができた。

    大正3年~7年、欧州で第一次世界大戦が勃発し外人が国に帰ってしまい、空いた別荘に日本人が住み始める。軍需景気で金持ちになった日本人が別荘を買うようになり、山上のインフラが必要になる。明治43年ごろから六甲山進出を始めていた阪神が山の上に電気を供給するなど、徐々に変化していった。と、開発史の初期を改めて紹介された。

    パート2は阪神、阪急の開発競争、パート3は国立公園化と進められた。今回の全体のコンセプトとして、六甲山が国立公園化して5年後の昭和37年5月10日、当時の原口 忠次郎神戸市長が「六甲連山は神戸の庭である。(中略)現状はあまりにも無秩序に開発が進められ、また、神戸の市街地と背後地の有機的な連携をも阻害している」という記述を提示された。紆余曲折の開発史を豊富な資料を駆使して、話題を展開されました。

    これからの六甲山はどうなるの?

    昨年末に、六甲山ホテルの譲渡がニュースになった。阪急系の六甲山経営の歴史が終焉を迎え、六甲山の現代史の転換になると思われた。今回の森地さんに解説していただいたことを手がかりに、今後の進展を注視したい。

    詳しくは2ページをお読みください。

  • 編集子のつぶやき(堂馬)報告書づくりの裏方を努めていますが、参加者に感想文をお願いするのを忘れたため、このコラムに登場しました。講演記録をテープ起しし、提供資料を読み返し、何とか120年の開発史を見渡しました。神戸開港を端緒に、行政の施策や事業者の目論見、さらに2回の大戦や大災害がからんだ、壮大な歴史ドラマを感じました。その節目で祖父の高岡勇氏の活躍も確かめられるなど、森地さんの愛着がうかがえました。
  • 主催:六甲山を活用する会協力:兵庫県立人と自然の博物館後援:神戸県民センター、灘区役所、神戸市教育委員会
  • 【助成金をいただいている機関】順不同大阪コミュニティ財団(東洋ゴムグループ環境保護基金)、コープこうべ環境基金、セブン-イレブン記念財団、 GGG国立・国定公園支援事業
  • 第131回市民セミナーの流れ
  • 市民セミナー1.自然体験:10:00~12:102.講演  :13:00~14:203.休憩  :14:20~14:304.意見交換:14:30~15:00
    • 昭和初期の六甲山~開発競争
    • 戦後の六甲山
    • 国立公園化以降の六甲山

講演のあいさつ(森地 一夫さん)

12年前は知られていない戦前の六甲山にスポットを当ててお話しました。今回は戦後の部分にも時間を割いてご説明します。私は六甲山について何の肩書きもなく、郷土史家というと大げさですが、個人的にやっています。

1.昭和初期の六甲山~開発競争

パート2として、昭和初期の賑わいをもたらした阪神・阪急の開発競争を紹介する。

  • 昭和初期の賑わい:北尾 鐐之助が『近畿景観』に寄稿した「六甲山雑記」は、昭和4年ごろの六甲山の賑わいぶりを紹介している。「山上には100以上の別荘があり、土日には高級車が砂煙を上げて疾走」、「秋晴れの日曜日には3,000人から5,000人くらいの人が登る」など。ホテルが4軒、飲食店も9軒あり、リゾートの場風になっていた。

■阪神・阪急と開発競争

昭和6年5月26日の神戸又新(ゆうしん)日報に「六甲山めがけて二電鉄の争覇」「バスだ、ホテルだ、食堂だとまるで早慶戦その儘、山の神聖を患ふる葺合署」という記事が載った。当時は、阪神、阪急が阪神間に線路を敷くだけじゃなくて、町づくりも併せてやっていた。華やかな町の発展が起きた時期で、下界での抗争をそのまま山の上に持ち込んだ。

  • 有野村から土地を購入:南山麓の住吉村など七か村が、北山麓の有野村から85,000円の補償金を得て、入会権を放棄した。大正15年ごろに、有野村は唐櫃小学校を建設するために、土地の売却を考えた。昭和2年に阪神電鉄に75万坪を160万円で売却した。阪神はさらに土地を買い増していった。
  • 出遅れた阪急:有野村から最初に土地の売却を持ち込まれて、阪急電鉄は価格が高いと断った。その後、奥村 千吉氏が持つ丁字ヶ辻一帯および付近の土地を購入したが、阪神の4分の1くらいで出遅れた。
  • 阪神の六甲山経営:広大な土地を押さえた阪神は、昭和7年に所有地の真ん中に幅員6m、延長7mの回遊道路を竣工した。住宅別荘地区、水源地区、森林地区、遊園地区、商業地区の5種類に分けて計画的に開発を進めていった。
  • 阪神・阪急の誘致合戦:阪神がやったら阪急も同じようなもので対抗した。阪神のケーブルに対して阪急はロープウエイ、阪急が昭和4年に六甲山ホテル、対して昭和9年にオリエンタルホテル。阪神は土地が広いので、昭和8年に高山植物園、昭和12年にカンツリーハウスを開園すると、阪急は記念碑台横にツツジ園を作って対抗した。こうして山の上はリゾート地、遊園地、休養地で発達したが、周囲からの懸念も生じた。

神戸背山の開発計画、県・市の対立

同じころ、兵庫県や神戸市は神戸の背後にある背山の開発計画を立ち上げていた。兵庫県は山の上を全部風致地区にして何も手が入らないように縛ろうとした。神戸市は風致地区を一部指定にする方向で、県と市の意見が対立した。神戸市は摩耶から西の方の道路網の整備などに力を入れた。背山というのは鉢伏から宝塚まで全山縦走路のエリアだが、阪急、阪神はここ六甲山上部だけなので、大きな話は進まなかった。

  • 多様な登山者:当時の雑誌に、「登山者の数は100万人あるいは150万人できかない。ケーブル、ロープウエイ、タクシーで上がる人など、が様々な登り方をしていた」とある。昭和10年から12年くらいがピークで、阪急、阪神のおかげで賑わった。

■阪神大水害と太平洋戦争で賑わいが止まる

昭和13年7月3日から5日の阪神大水害で、ケーブルは7ヶ月運休。奥村氏が造った表六甲ドライブウエイは完全に破壊されて不通になる。これが一発目のダメージで、ちょっと下火になる。

  • 大平洋戦争~終戦:

六甲登山ロープウエイが昭和19年、摩耶ケーブルも金属回収のために撤去された。六甲ケーブルの撤去は時間切れで終戦を迎えた。

  • ゴルフ場で芋の栽培:昭和20年5月21日の神戸新聞に「山頂に振り下す鍬」「ゴルフ場も忽ち増産基地」が載った。兵隊がゴルフ場を掘ってサツマイモを植えていた。大戦中はかなりひどい状態で、ここがダブルショックで六甲山の賑わいはストップする。

2.戦後の六甲山

終戦を迎えて、六甲ケーブルは昭和20年に復活、六甲山ホテルも昭和26年に復活する。

■六甲山は泣いている

昭和27年に、小林 一三氏が朝日新聞の六甲山特集に「六甲山は泣いている」と題して投稿した。戦前に阪神、阪急が散々競争していたことを反省し、知事、市長、阪神、京阪神電鉄の四者共同で、六甲山のグランドデザインを作ることを提案している。

  • 両電鉄の思惑:阪神電鉄は25年前から本腰を入れ、六甲山系の土地を1/3握っており、回遊道路も作った。静かな山上都市を建設する方針は変わっていないと主張した。阪急は、20~30坪の山上住宅の建設に乗り出し、大衆の観光地、山上居住地として開発できる。兵庫県、神戸市、阪急、阪神の四者の協力態勢を作る必要があると述べていた。

3.国立公園化以降の六甲山

パート3は国立公園化で、国立公園を巡る話題と現在までの動向を紹介する。

●表六甲ドライブウェイの復興:昭和31年8月10日に有料道路として復旧した。道路整備特別法を使い、不足した資金8,000万円を小林 一三氏から借りた。同氏はロープウエイの復活よりも、これからは一人ひとりが自家用車を持つモータリゼーション時代が来るので、道路を復活する方がいいと思っていた。

  • 国立公園に編入:昭和31年5月1日、瀬戸内海国立公園に追加して指定された。六甲国立公園期成促進連盟が会長原口神戸市長を中心に7年間運動していた。指定公示後は、公園法によって毎年国庫補助を受けるほか、観光客の誘致に大いに役立つと考えられた。
  • 国立公園制度の流れ:戦前の国立公園法は特別保護区や国定公園の整備だった。戦後、高度経済成長期における、自然公園の保健休養機能の拡充と観光レクレーョン開発の進展という方向に変わり、昭和32年に「自然公園法」になる。どんどん国立公園を開発し、みんなのリゾートにしようという流れで、昭和45年までに全国の国立公園内に68の有料道路ができた。
  • 利用気運の盛り上がり:ケーブルの利用者は昭和36、7年をピークに増えている。表六甲ドライブウエイが開通し、モータリゼーションが効いてどんどん伸びている。六甲山を国立公園というキーワードで利用しようとする気運は盛り上がった。
  • 神戸市背山総合開発計画:四者一体の開発については、昭和37年に原口市長が「無秩序な開発」と懸念の文章を書いて、背山総合開発審議会を設置し開発計画の審議を託した、「神戸市背山開発計画」がある。基本方針の中の観光開発には、「古典的観光の基調をなしている社寺・仏閣のような歴史的由緒・旧蹟はほとんどなく、きわめてバターくさい、エキゾチックなムードがある」と書いているのは面白い。基本計画図には、極楽茶屋から摩耶山を通して、生田川に下ろすモノレールの計画が書かれていた。
  • 自然保護法の改正と規制の強化:この後、環境保全運動や自然保護政策の導入やらで、環境庁が設置され、自然保護法が改正されどんどん厳しくなっていく。国立公園の箔を付けたのが、自分の首を締めてしまうという状況が昭和45年から起こってしまった。昭和53年に神戸市の都市景観条例が出て、 景観を守ろうとするかなり厳しい条例が出てきた。

■阪神・淡路大震災

バブル経済の辺りまでが道路のピークで、ケーブルはずっと下がり調子で震災でポコンと減り、半年止まる。ドライブウエイは平成15年で無料化になりデータがないが、ピークは平成の頭くらいで、震災がダメージで、下降線はそのまま残ってしまう。

  • 国立公園のメリット:平成13年の行政担当者へのアンケートで、国立公園指定のメリットは、自然の保護がされることが圧倒的に高く、利用者増に伴う経済波及効果が次点になっている。デメリットは規制に伴う
  • 経済的損失が大きいというのが圧倒的で、認可手続きが煩雑であり、時間的損失が大きいというのが2番目に上がっている。
    • 規制の緩和:六甲有馬特区が先鞭をつけて、平成15年に山の上でイベントをやる許認可を簡単にする提案が通った。平成28年7月20日に神戸新聞に「国立公園の建築緩和を」という記事がある。現在の規制をもっと緩和して、都道府県知事又は政令市の市長が特例を定めて許可することを、国家戦略特区に申請している。環境省は提案を受け入れないと回答している。どうなることやら。
    • 六甲山利用者の想い:平成13年のアンケートでは、自然というので六甲山に来ているのが定着していることが分かる。六甲山の担っている役割は、山の自然を活かしたい場所だと思っている人が多い。

    ■六甲山の未来やいかに

    シンボリチックな写真を2点だけ、六甲山ホテル旧館とリゾートホテルをしている所の看板を紹介する。この辺が六甲山の風景を変えていくかもしれない。どういう風になるのか見守っていきたい。

    まとめ(森地さん)

    私は六甲山をどうこうする責任はないが、市民代表の立場でそれなりの話をしたと思っています。六甲山は紆余曲折していますが、みんなで使っていこうというのが変わっていない。最後の機会に話させていただいたことを感謝します。

    事務局

    六甲山開発史を短時間でお話いただきました。資料収集に大変ご苦労されて、その一部をご紹介いただき、持ち帰り資料としてもご提供いただきました。森地さんが探究をさらに進展されるのを期待します。

  • ◆参考・配布資料など・PPT:「六甲山開発史バージョン2」・配付資料:「六甲・摩耶にあるもの・あったもの」、明治44年新聞記事など、および文字起し一式。第31回市民セミナー報告書「六甲山開発史」。・参考資料:国立公園化に関わる行政資料、自然公園法に関わる資料など多数。
  • ◆参加者の声・六甲山120年史を資料や写真で駆使して説明していただいた。・六甲山は見る山だったが、歴史を知って利用したくなった。・六甲山は昔も今も人の手が入り、魅力や価値が増している。
    • ・このセミナーは素晴らしい財産だ。記録として活用したい。

    参加者:28名(50音順・敬称略)岩浅 敬由  岡  敏明   川部 忠夫 北垣  正 天野征一郎   井奥  稔  伊谷 幸子  伊谷 正弘 北嶋 治夫 熊谷 正一  小谷 寛和  澤﨑 悦男  雑喉  良  下田 ゆみ子 高井 俊夫   高田誠一郎   高橋 貞美  辻    恵  佐藤 昌弘  堂馬 英二 中尾 啓子  南部 哲夫  藤井  禎 前田 裕子    眞﨑  光   森地 一夫    山田 恭治  鷲尾 直枝