• 阪神大震災後、灘区で「まちあそび」
  • 摩耶ケーブル・ロープウェ―存続を提案
  • 「摩耶山再生の会」の実践と今後

 阪神大震災後、灘区に帰ってきて、灘区の魅力を発信し、楽しむ試みをしています。平成22年に摩耶ケーブル・ロープウェーが廃止になることを知り、地域の様々な団体で存続を図る運動を行い、存続が決まりました。ケーブル・ロープウェーの利用や掬星台の施設を活用するイベントなどを行い、利用者が次第に増えてきました。

阪神大震災後、慈さんは灘区のまちづくり協議会などで目覚ましい活動をされていました。平成22 年の摩耶山ケーブル・ロープウェーの廃止に対して摩耶山再生会議のメンバーとして、神戸市に存続を提案しました。存続決定後、「摩耶山再生の会」事務局長として、関係団体と連携し、施設や地域を生かす様々な試みを続けています。六甲山系の資源を活かす類稀な実践に敬服しています。(事務局)

開催日時2016年8月20日(土) 10:00
会場六甲山自然保護センター& 近畿自然歩道・まちっ子の森
講師慈 憲一 ( 摩耶山再生の会 事務局長)
詳細 チラシPDF 報告書抜粋PDF

市民セミナー報告書より

第127回テーマ

摩耶山再生の会の活動

 

  • 阪神大震災後、灘区で「まちあそび」
  • 摩耶ケーブル・ロープウェイ存続を提案
  • 「摩耶山再生の会」の実践と今後 
  • 実施日:平成28年8月20日(土)

    午前10時~ 15時00分

    場  所:六甲山自然保護センター、記念碑台・散歩道

  • 講師:慈 憲一さんプロフィール

    1966年(昭41)神戸市灘区出身・在住。東京在住時に阪神・淡路大震災で実家が被災、翌年神戸に戻る。灘愛をテーマにしたメールマガジンやWEBサイトなどでマニアックな灘情報を発信しつつ、数々のイベントを開催。2013年摩耶山でレンタルショップmonte702開店。灘百選の会事務局長、摩耶山再生の会事務局長など灘的肩書き多数。

  • 午前中は散歩道のササ刈り

    記念碑台は晴れで、午前中の活動に18名が参加しました。イベント清掃ぴかぴか隊の14名は散歩道とまちっ子の森でササ刈りの作業をしました。4名は散歩道をシュラインロードを経て周回しました。

    午後の講演には26名が出席しました。

    慈さんは震災後から一貫して灘区の活動家

    慈さんは、「灘区民にと

    っての山は摩耶山で、六

    甲山はレジャーの山みた

    いだ。長峰とか摩耶山は

    日常的に歩いて上がって、

    裏山として親しんでいた。

    摩耶山は信仰の山で、中

    腹に天上寺があって、よ

    くここに連れて行かれた。

    実は摩耶山は嫌いやった。お寺しか無くて、「寺の人間が何で寺に行かなあかんのか」と思っていたと、摩耶山に関わる原風景を紹介された。阪神淡路大震災の翌年、神戸に戻ってきて、灘区の地域復興活動に20年関わっておられるコーディネータで、地域活動のコンサルタントとしては主流でない、万人受けすることができないと自認されています。摩耶ビューライン復活の渦中で、「ふだん使いの山」にこだわって地域ぐるみの活動を根づかせている存在感は大きいです。

    まやビューライン復活で地域連携の盛り上がり

    講演の冒頭で、阪神大震災後の地域への関わりを紹介された。西灘の味泥復興委員会で初めて関わり、灘区民まちづくり委員会の企画委員として、「なだ・なだ」の制作をはじめ、地域全体を見渡した活動を発展しています。そして、摩耶ケーブル・ロープウエイを残す方向で取り組み、摩耶山再生の活動につながっています。

    震災後復活した「まやビューライン」の乗客を増やすためにいろんなイベントを着想して実践していますが、乗客数は低下し存続の危機を迎えます。2006年に「リュックサックマーケット」のイベントを導入して活路を見出していきます。しかし、2010年に、「まやビューラインを来年廃止」と報道されて愕然とし、「摩耶山再生会議」を設立し、神戸市に存続の「提案書」を出します。そして「将来構想」の具体化を1年かけて錬り、再度「提案書」を提出します。1ヶ月後に神戸市長が存続の意向を表明しました。市民活動がオーソライズされる転機になり、実行的な団体「摩耶山再生の会」が設立されます。

    そして、イベントをどんどん拡充しつつ、「坂バス」でアクセスも改善するなど、地域を巻き込み、震災後の復興プランも活かすなど、多彩な活動が進展します。これらの経緯を失敗談も交えながら、にこやかに話されました。

    卓越した「手作りの山あそび」?に感服

    摩耶山は盛り上がっていると聞いていました。摩耶山のアクセスが廃止されるという致命的な課題に対して、本腰を入れ本格的な取り組みをされている実態を知りました。ピンチをチャンスに変える、地域挙げての活動を創出したのです。立役者の慈さんと仲間、地域の皆さんにエールを贈ります。

  • 参加の感想  木下さん
  • ぴかぴか隊14名で参加させて頂きました。お話の中で今ではなくなっている掬星台の山上遊園地や摩耶観光ホテル等賑わっていた頃があった事も知り、寂しくなった摩耶山を再生させる慈さん達の大変な努力に感心しました。イベントの企画等の内容もユニークで、沢山のアイデアを持たれ、それを将来構想やマヤ暦等で実行されています。今後ともより一層、摩耶山そして六甲山が市民のいこいの場所となりますようにご活躍をお祈りいたします。
  • 主催:六甲山を活用する会

    協力:兵庫県立人と自然の博物館

    後援:神戸県民センター、灘区役所、神戸市教育委員会

  • 【助成金をいただいている機関】順不同

    大阪コミュニティ財団(東洋ゴムグループ環境保護基金)、

    コープこうべ環境基金、セブン-イレブン記念財団

  • 第127回テーマ:摩耶山再生の会の活動
  • 阪神大震災後、灘区で「まちあそび」
  • 摩耶ケーブル・ロープウェイ存続を提案
  • 「摩耶山再生の会」の実践と今後
  • 第127回市民セミナーの流れ
  • 市民セミナー

    1.自然体験:10:00~12:10

    2.講演  :13:00~14:20

  •  

    3.休憩  :14:20~14:30

    4.意見交換:14:30~15:00

  • 講演のあいさつ(慈 憲一さん)

    今のJR摩耶駅の南側にある小さなお寺で生まれて育ちました。小・中・高まで神戸にいて、大学で関東に行き、楽しく東京で住んでいこう

    とそのまま就職しました。11年目に阪神淡路大震災があり、実家の寺もつぶれ、地域が壊滅状態になりました。神戸に帰って手伝わないかんと衝動的に、翌年の1996年に帰ってきました。

    1.阪神大震災後、灘区で「まちあそび」

    ■震災4年後から灘区全体に関わる

    • 味泥での活動:各地区にまちづくり協議会ができ、地域の団体がそこを中心に復興をやっていた。阪神の西灘の周辺で、味泥復興委員会のお手伝いをしだしたのが、神戸との関わりができた一番最初だった。
    • 灘区全体での活動:当時灘区に灘区民まちづくり会議というのがあり、その下に若手の企画委員会ができた。そこで町の勉強をしてこいと自治会長に放り込まれた。震災後4年目だったか、灘区全体、六甲・摩耶とか、町に関わっていろいろすることになった。

    ■惜しむことから、残す方向へ

    六甲山で悲しかったのは回る十国展望台、無くなるので「さよならツアー」をした。神戸のいいもの、自分が育った時にあったものがどんどん無くなっていくのを目の当たりにして、すごく悲しい思いをした。摩耶山の方でケーブル・ロープウェイが無くなるということで、たまには残す方向でちょっと頑張ってみようとしたのが、摩耶山再生の会の活動につながっている。

    2.摩耶ケーブル・ロープウェイ存続を提案

    ■摩耶山の昔と今

    • 大正末に摩耶ケーブル:大正時代の終わりに天上寺に人を運ぶために摩耶ケーブルができた。昭和4年に摩耶観光ホテル(軍艦ホテル)が当時の摩耶駅にでき、映画館や公園があり、レジャーランドみたいにいっぱい人が行った。
    • 廃墟も脚光:軍艦ホテルは日本2大廃墟で、廃墟会でクイーンと言われている。キングが長崎の軍艦島で、六甲山系で全国区レベルのすごい地域資産だ。廃墟を活用する話も進めている。
    • 掬星台までロープウエイ:昭和13年の大水害で1回ケーブルが止まった。その後戦争で止まり、戦後10年ぐらい止まっていた。昭和30年代、戦後復興で神戸の交通局が山上駅から掬星台までロープウエイを引いた。そして奥摩耶遊園地ができ、集客施設もできた。掬星台は高射砲陣地を造るために切り開かれた所だった。
    • 昭和42年の水害:わざわざ山の上に行かなくていいという風潮になった。昭和42年の水害でケーブル・ロープウェイが被害を受け、摩耶観光ホテルも廃業になり周辺はどんどん廃れた。
    • ■「まやビューライン」として再出発

      水害とか戦争で中止になっても何とか復活したが、1995年の震災で、大木が倒れ、トンネルも埋まり、復活は無理だと半ばあきらめかけた。

      • 6年後に復活:灘区や神戸市民の人が、ぜひ復活させたいと署名運動をした。6年後の平成13年に復活し、「まやビューライン」という名前に改めて再出発した。
      • 乗車数の低下に危機感:初年度は30何万人乗った。それでも大赤字だがたくさん人が乗った。摩耶ビューラインの友の会ができ、一口なんぼでみんなで支えた。復活した平成13年(2001)をピークにまた落ちていく。平成18年か19年(2007)くらいに、「このままやったらまたあかんぞ」という空気が出て来た。

      リュックサックマーケットの開催

      摩耶ケーブル・ロープウエイの集客のため、2006年からリュックサックマーケットを毎月第3土曜日にやって、10周年になる。リュックサックの中に入る物だけで山に来て下さい、それで自由に売っても物々交換でもいい。最初は出店者が8組だけ、毎月やり続けているとメディアも取材に来てくれて人が増え、1年経たんうちに200組の出店者で賑わいだした。

      フリーマーケットのような仕切もな

      い、申込も入らない、出店料も何も要

      らない、闇市みたいなものだ。見に来

      た人とコミュニケーションができるの

      が、一番の肝だ。出店者には、再生の

      会の「マイマザーマウンテン・母なる

      山摩耶山」というコピーを作ってくれ

      た人もいる。

      ■連合艦隊の「摩耶再生会議」設立

      次々にイベントや名物商品作りを行っていたが、ケーブル・ロープウエイの乗車数は増えなかった。平成22年(2010)3月に「まやビューラインを来年から廃止します」という新聞報道があった。各方面に相談し、婦人会、摩耶山を守ろう会、灘百選の会、区民まちづくり会議を一個にまとめて、灘区民全部で摩耶山を考える連合艦隊的な「摩耶山再生会議」を報道の3ヶ月に作った。

      ■神戸市に協働の「提案書」を提出

      市民も行動するから一緒に考えてほしいという「摩耶山再生のプロセスの提案」を作成して、平成22年9月に神戸市長に渡した。この時点では市長は廃止に満々だった。提案を具体化して将来構想を1年かけて作った。

      平成23年(2011)10月に摩耶山再

      生会議から要望書を再提出した。そして、実行的な団体「摩耶山再生の会」に改称し、広く市民に呼びかけて、活動することにした。

      3.「摩耶山再生の会」の実践と今後

    • ■存続の方針で市民活動が進展

      青天の霹靂だったが、平成23年11月25日に神戸市長が「まやビューラインを存続する」意向を表明した。その決定によって「提案書」を作成し、最終的に存続することになった。好き勝手にやっていたのを、摩耶ビューライン再生の動きによってオーソライズされた。市民団体の市民活動になっていった歴史的な出来事だった。

      ■どんどんイベントを開催

      リュックサックマーケットはコン

      テンツとして完全に定着した。それ

      に続けて、音楽をテーマにした「摩

      耶山アコースティックピクニック」、

      食べ物の「摩耶山スパイスピクニッ

      ク」、作品展示の「リュックサック

      ギャラリー」というイベントをやっ

      た。勝手にグループが盛り上がって

      いく、山の仕掛けが面白くなった。

      • 坂バスでアクセス改善:摩耶ケーブルへのアクセスが悪い。神戸市がJR灘駅から上の方までコミュニティバスを走らせてみようとしたのが「坂バス」。山の手の人が水道筋まで買い物に行ける「お買い物バス」の意味合いも加えた社会実験で徐々に乗車率が上がっている。

       

       

       

       

       

       

       

       

       

      • 「マヤ暦」で広報:

      広報するのも重要で、

      「マヤ暦(ごよみ)」

      を毎月出している。

      摩耶山でこんだけイ

      ベントをやっている

      というのを見せたい

      ので、見にくいくら

      い手書きでぱんぱんに書いている。

      ●「マヤカツ」でプラットフォーム:どの曜日でもいいから市民の活動を募集する。例えば、ヨガ活動、山の幼稚園、山撮り写真教室などなど。一人ひとりの方に主催者になってもらってやると、密度の高いものができてくる。僕らは、プラットフォームを作っているだけで、決して主催じゃないというのが、会の肝だ。

      • monte702の活動:星の駅の2階にあるmonte702が事務局で、イベントの予約を取ったり、山の道具を貸したりしている。人工芝を貸し出して、子どもに山の上でごろごろして貰っている。(左下写真)摩耶山のお土産として、麓の物やオリジナルな商品も売っている。麓の鈴木薄荷から仕入れているハッカは虫除けとか臭い除けとかで、一番売れている。(右下写真)

       

       

       

       

       

       

      ■「好きでやっている」のが原点

      摩耶山にすべてを捧げているつもりはない、好きでやっている。親に摩耶山にひんぱんに連れてこられ、山に触れていたというのが、今こうしている所につながっている。子どもたちを山にどんどん連れてきて貰って、山の体験をどんどん増やしてくれたら、山で何かやってくれる人が出てくるのではないかと期待している。

      質疑応答

      Q1:湧き出るアイデアの原点は?~思いつきをすぐやるタイプ。1日寝かして忘れるのはネタとしてあかん。やることによって、次から何かが出てくる。

      Q2:高尾山との比較は?~京王電鉄が本気でやっている。靴を洗える場所など細かいサービスができている。平日でも人がいっぱい来ている。

      Q3:六甲・摩耶の活用策は?~僕らの小っちゃい頃に較べて市民が上らない。「ふだん使いできる山」にしたい。地元の人に利用してもらう。

      メッセージ(慈さん)

      一人でも多くの人に上っていただきたい。「六甲・摩耶はいいところだよ」と声を大にしていただきたい。お孫さんとかをどんどん山に上がらせてほしい。

      事務局

      慈さんは阪神淡路大震災後の復興に軸足を据えて、実践を肥やしにしながら、大きく地域を巻き込む市民活動に発展された。「アイデアは誰でも思いつくが、それを実行するかどうかが違う」というのは至言だ。参加者も共感されたことが多いだろう。

    • ◆参考・配布資料など

      ・パワーポイント:「摩耶山再生の会の活動」

      ・参考資料:「摩耶山再生 将来構想」

      ・参考資料:マヤ暦8月、イベント・チラシ

      ・参考資料:第21回市民セミナー報告書「摩耶詣について」、

      第122回報告書「シム記念摩耶登山マラソンの歩み」

    • 慈 憲一:うつみ けんいち

      摩耶山再生の会 事務局長

      〒657-0826 神戸市灘区倉石通2-2-29

      電話:078-802-3133 FAX:078-802-3112

      e-mail: eken@pp.iij4u.or.jp

    • ◆参加者の声

      ・摩耶山で沢山のイベントをしているのを初めて知りました。

      ・小さい時の思い出が走馬燈のように駆けめぐりました

      ・身体を動かすことと、識者の講座の組み合わせは新鮮でした。

      ・再生の会の多様な活動を紹介いただき勉強になりました。

      ・慈さんの次々湧き出るアイデア、その継続実施に感心!

      ・慈さんのイベントに感心。エネルギーの源に興味を持った。

      ◆参加者:26名(50音順・敬称略)

      浅田 香織 伊谷 正弘 岩淺 敬由 慈  憲一 大林 恵子 織田 泰史 川幡  孝 北嶋 治夫 木下 健二 木村 明恵 倉持  隆 雑喉  良 玉井  誠 堂馬 英二 土塔あつ子 中尾 啓子 中尾 嘉孝 長野  繁 前田 康男 松木  偉 松本 俊夫 松本よしゑ 森迫 盛二 森本 桂子 山下 美紀 柳田千恵子