参加申し込み

市民セミナー報告書より

霧の中にタンナサワフタギの白い花

 午後から雨という天気予報で、曇り空の六甲山の天気がいつまで持つのか気にかけながら上山しました。4月度以来の環境整備活動に9名が参加し、6月から併催する環境学習の体験会にも4名が参加しました。散策路や二つ池の雑木林でタンナサワフタギの白い花が満開でした。

シムさんの功績伝承がライフワーク

 髙木應光さんは社会科の教員をされ、ラグビー部の顧問も続けられ、指導にあたっては勝ち負けだけでなくラグビー精神の由縁を話すことを重視されています。近辺でラグビー人のルーツを調べるうち、居留地時代の外国人やA.C.シムという人物に出会い、「11月28日」の記述に「ビリビリ」と脳に衝撃を受けたとのことです。この日はシムの亡くなった日で奇しくも髙木さんの誕生日でした。神戸のスポーツ界で活躍したこれ等の人々との因縁が背景にあって、薄れゆくスポーツ文化の伝承に注力されています。なお、白州次郎の命日もこの日です。

神戸・六甲山発のスポーツを再考

 神戸外国人居留地が窓口となってスポーツが広がりました。KobeRegatta&Athletic Club が明治3(1870)年に設立されたのは画期的な出来事で、ここからスポーツと社会的活動を広めていきました。リーダーのA.C.シムたちは明治5年の摩耶山へのマラソンや、明治29 年の三陸大津波へのボランティア活動を行っています。サッカーやラグビーは芝生の東遊園地で育まれましたが、今やその面影が見当たらないのは惜しいことです。
 六甲山の開発は外国人によるスポーツ登山から始まり、A.H.グルームの別荘づくり、そして「六甲山の外人村」に発展し、1901年には日本初のゴルフ場(プライベートコース)、1903年に神戸ゴルフ倶楽部が誕生しました。H.E.ドーント、ワーレンらによる登山者の組織化も行われ、現在に続く毎日登山や関西の登山団体の設立に大きな影響を与えています。
 1903年には六甲山でノルウェー領事オッテセンがスキー指導をしています。日本初とされる新潟のレルヒ少佐より8年も早い。
 神戸そして六甲山が、様々なスポーツのルーツであると再認識しました。

生活文化を尊重する市民でありたい

 「大きなイベントをするなら歴史を掘り返す必要がある」という髙木さんの言葉に賛成です。神戸はスポーツ文化の伝承についてはお粗末な気がするので、市民自らが貴重な歴史や生活文化を大切にしていきたい。

講演の内容

講演の挨拶(髙木應光さん)

 高校で社会科を教え、ラグビーの監督をしていた関係でラグビーの歴史や伝統を調べていました。そこで居留地時代のシムさんに出会ったことから、神戸とスポーツの歴史の研究を続けています。今日は六甲山とスポーツの関りについて話をします。

1.東遊園地と外国人クラブ

 明治初年の神戸開港で外国人が多勢来た。神戸は山と海があるので特に気に入られた。明治3年(1870)には本格的なスポーツクラブ、KobeRegatta&AthleticClub(KR&AC)ができた。今の東遊園地にあり、芝生のグランドの後ろには六甲の山並みが見えた。サッカーや陸上競技、野球もした。
 クラブハウスは1階が体育館でダンスホールにもなり、劇場、映画館にもなった。2階はレストラン、バー、カードルーム、ビリヤード、図書室もあった。

■KR&ACをリードしたA.C.シム

 アレキサンダー・キャメロン・シムは英国の薬剤師で、関西でラムネを本格的に売り出した人でもある。シムさんがKR&ACの設立を提唱し運営もした。居留地の自主消防隊長を務め、明治24年の濃尾地震や三陸大津波(明治29年)では、今で言うボランティアとして義援金を集めて現地に赴き救援活動を行うなど、義侠心のある男だった。

■スポーツ選手だったシムさん

 シムさんはレガッタ、陸上競技,ラグビー等で活躍した。KR&ACでは摩耶山までの往復長距離走を行い、シムさんは約14kmを1時間24分30秒という記録を持っている。
 この伝統もあってか、明治42年(1902)、神戸-大阪間31.7km の「マラソン大競走」が日本初のマラソンとなった。本年、神戸市役所前に須磨ライオンズクラブによりその記念碑が贈呈された。

2.六甲山とボランティア活動

■H.E.ドーントが六甲山を世界に紹介

 山に登ること自体を目的としたのがスポーツ登山である。ところで、最初に六甲山に登ったのは英国人の造幣局技師ガウランド等3人であった。
 ドーントは土曜日に居留地で仕事を終え、歩いて登ってゴルフ、別荘に泊って翌日またゴルフ、夕方歩いて下山というのを冬でも繰り返した。英国の『バドミントンマガジン』『イラストレイテッドス
ポーツ』という雑誌に投稿して、極東日本・六甲山のスポーツ事情を紹介した。また『INAKA』は
六甲山の山歩きやゴルフを紹介した本で18巻まで発行した。こうしてドーントは六甲山を世界に紹介した。

■毎日登山の始まりはワーレン

 ドーントと親友ワーレンはマウンテンゴートクラブを創って植林や道作りも行った。ワーレンはハンター坂から大龍寺、錨山から再度山への道を30円もの費用を出して開発した。彼は15年間1日も休みなく再度山に登り「毎日登山」を始めた。以来、神戸ッ子にも盛んになり、今では連続2万回の人もいる。

■六甲山をリゾート開発したグルーム

 自然と共生した別荘生活を送るためルールを広めた。平屋建て、垣根なし、建築費は坪80円以下で華美にならないように指導した。散歩にはノコと鋏を持ち雑木の整備や草刈りをした。徳川道の杣谷の部分も改修し「カスケードバレイ」と呼ばれた。
 道がよくなり多勢の人が別荘やゴルフ場に上がって来る。外国人はカゴ(1人50銭)や馬で上がってきた。少し歩きたい人には、腰を押す「押し屋」もいた。その他、ゴルフ場の芝の手入れ、別荘番など、地元への経済効果も大きかった。

■キャディも大事にした神戸の外人さん

 キャディは唐櫃や住吉などの子供たちが、着物に草履ばきで務めた。彼らの負担軽減のためクラブは10本以下に制限された。11月のゴルフ場閉鎖前の最後の日曜日にキャディ大会が行われた。キャディがプレーし、外国人会員がキャディをする。優勝賞金5円で米1升12銭の時代ではかなりの金額である。グルーム一家が総出で弁当を作り、輸入品のジンジャーエールやキャンディも振る舞われた。
 グルームをはじめ神戸の外国人はベンチャーな商売人だったせいか、温かい人柄の人物が多かった。

■スキーの始まりも六甲山

 明治44年(1911)、新潟県・高田連隊でオーストリアのレルヒ少佐がスキーを教えたのが最初と言われるが、その8年も前に六甲山でノルウェー領事オッテセンがスキーを伝授した。前年に八甲田山遭難で多くの兵隊が亡くなったのを知った領事は、軍隊が冬にスキー行軍できれば遭難は防げたとして、スキーを教えるようになったという。

3.スポーツ文化の再考

■外国人の動きを日本人が引き継いだ

 外国人がどんどん山に登り、それをまねて六甲山に登る日本人も増えた。子供や女性も着物姿、草鞋履きで登った。さらには、日本人も主体的にスポーツを組織化するようになった。塚本永尭は神戸草鞋会を造り、やがて神戸徒歩会(KWS)、関西徒歩会と大きくなっていった。外国人も多数会員になったので機関紙は英文でも併記された。
 女性だけの登山クラブ(日本婦人アルカウ会)が存在したのも神戸・阪神間の特色で、学校登山も盛んになった。甲南小学校の毎月登山は今でもかつての伝統を受け継いでいる。やがてこれらが、今日の六甲全山縦走につながっていく。

■六甲山で育った人が活躍

 六甲山を舞台に実力をアップさせた若人が、日本アルプスや欧州アルプスに出て行くことにな
る。単独行で有名な加藤文太郎や「ロックガーデン」の名付け親・藤木九三、彼の友人で詩人の富田砕花などがいる。藤木は岩登りの練習のために「ロックガーデン」を開拓。そして、岩登りの「RCC」というクラブを立上げ、若人に大きな影響を与えた。このメンバーから欧州アルプスに行き活躍した人々や登山専門店を開いた人もいる。
 六甲山で育った多様な人々が、外国人のスポーツ文化を引き継いでいったのだった。

■歴史を掘り起こして活かす

 今の神戸や大阪では、せっかく花開いたスポーツ文化の伝統が省みられなくなっている。例えば、今秋に神戸マラソンや大阪マラソンが開催されるが、日本で最初にマラソンを走ったのは神戸-大阪間という伝統をPRしないし、大阪に至っては「東京の二番煎じでよいから」と公言している。
 神戸市では専門の研究員を置かないので、横浜に比べ居留地の研究は遅々として進んでいない。
 歴史を掘り起して生かしていくことが、「外国人が祖型を創った神戸」を発展させることになる。

質疑応答

日本人はKR&ACの会員になれるの?

 今日、日本人の入会を3割認めている。

KR&ACのRはなぜレガッタなの?

 クリケットやラグビーは、パブリックスクールや大学のクラブ経験者には馴染みがあったが、シムさんのように上流階級でない人々にはボートや陸上競技の方がなじみであったのだろう。

まとめ(髙木さん)

 「神戸は横浜とともに・・祖型は外国人がつくったに等しい」と司馬遼太郎は書いた。その通りだ
と思う。それを受け継ぐのは我々だ。スポーツでもその歴史や伝統、どんな風にして生まれ、日本
にどうやって定着したか、そこをはっきりさせ、今に活用していくのが大事である。

事務局より

 近代スポーツには神戸発というのが多いことに参加者一同、目を見張る思いでした。歴史や伝統を掘り起こし今に活かすという言葉を重く受け止めました。このことが大変重要な時代になってきたとも思います。私たちもこのような昔の事実を発信していきたいと思います。