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市民セミナー報告書より

冷え込んだ六甲山でイベントの準備

 快晴の六甲山は午前10時で-4℃、ガイドハウスにボランティア8名と西山ファミリー4名が集まりました。定例の環境調査を行い、29日に開催する冬のパークレンジャーのため安全ロープ張りも行いました。二つ池の水位は少し低く、氷で覆われていました。来週は冬景色に恵まれそうです。

柴田さんは卓越したフィールドワーカー

 柴田 昭彦さんは『旗振り山』(ナカニシヤ出版)を著しています。京都地名研究会の会員であり、山名や地名の実地検証などの実績が豊かな方です。
 大阪の米相場の状況を手旗信号で各地に伝えたのが旗振り通信です。六甲山の旗振山も旗振り通信をした所です。近畿・西日本など各地に名前や痕跡が残っていますが、その歴史が忘れ去られていく状況です。失われる歴史を残すために、現場を訪ねて綿密な野外調査を続けておられます。「本格的な旗振り山研究者は世界で私一人だ」と自負し、ライフワークにされています。

旗振り通信の再現実験から紹介

 柴田さんは事前に市民セミナーや記念講演を受講して、入念に準備をされ、早期に大部のレジュメも送って来られました。講演は分単位のタイムスケジュールを組んで、受講者の理解を高める配慮をされていました。
 まず、旗振り通信の概要です。江戸時代の享保15年以来、堂島の米相場の値動きを全国各地に旗振り通信で伝えたこと、その中継地の旗振り山が選ばれたこと、旗と望遠鏡
を使った通信の方法などを解説されました。
 そして、30年前に行われた旗振り通信の再現実験のTV録画、ご自分が監修したTV番組「タイムスクープハンター」の放映と続きました。これで幻の「旗振り通信」のイメージが鮮明になりました。持参された赤旗を使い、旗の振り方も実演されました。
後半は六甲山に残る旗振り山の伝承について説明され、旗振り山の実地検証の難しさを語られました。忘れられていく歴史に脚光を当てようとする柴
田さんの熱意に、受講者一同は敬服しました。

歴史を考証するエネルギーに接した

六甲山の旗振山の名前は有名です。江戸時代の旗振り通信の再現を目にして、時代背景や通信技術の推移なども理解できました。柴田さんが旗振り山の歴史を考証される思いに接して、事実に肉薄する緻密な探求心に啓発されました。歴史や伝承を記録して後世に伝えることの大切さを実感した講演でした。

講演の内容

1.旗振り通信の概要

■日本の経済も左右した最新鋭の通信手段

 享保15年(1730)、大坂・堂島の米会所が公許、その米相場が各地の米取引の基準となった。米相場の上下で利益を上げようとする人々が一刻も早く相場を知ろうと、旗振り通信を始めた。東は江戸、西は下関までつながっていた。江戸へは8時間程度(箱根越は飛脚で7時間)、広島へ30~40分で到着し、時速250~750km。飛行機並みの速度で当時最速の通信手段であった。
 幕末には全区間で公認、明治期は取引所に櫓が組まれ、旗振通信社という会社組織で行われるほど発展した。電信電話ができても時間と費用を要したので、専ら旗振りが使われた。大正3年に予約電話ができ、旗振り通信は大正7年に終焉を迎えた。

■通信中継地が旗振り山

 旗振り場は見通しが第一である。山の頂上はガスが発生しやすく、旗振り師が重い望遠鏡を抱えて1時間以内で登れる山の中腹の平地や開けた堤防などが選ばれた。区間の距離は江戸期で6~26kmで、明治期はやや短くなる。それ以上の距離では天候により見えないことが多かった。関東では旗振り場の伝承が消えているが、関西ではたくさん残っている。相場山・相場取り山・旗山、畑山も旗振り山だ。

■道具は旗と望遠鏡が必須

 旗の大きさは1畳程度。色は望遠鏡で見てはっきり浮かび上がるものを選んだ。棟梁が管轄エリアを設け、兵庫から岡山にかけては白と赤を、大坂から近江には白と黒などと決めていた。
 望遠鏡は20~25倍で長いものは1m。ぐらつくので三脚で固定した。日本製、フランス製、ドイ
ツ製で、明治末期や大正期は双眼鏡も用いた。

■確実な伝達には熟練技とシステム化が必要

 旗の絡み付き防止で、旗を回転させて回転数で数値を表わし、数字を文字に変えることもできた。慎重になるあまり、一人では数字を読み取ったら覚えられない。1人が書きつけるか、即時に書きつけて送らないとわからなくなる。確実さの保証のため種々の方法があった。例えば「合印」は12に対して34の数字が対応するなどと決め、12を振った後にすぐに34を振って確認できるようにした。
 金儲けのため途中で信号を盗む者がたくさんいたので暗号表を用いるセキュリティが確立していた。江戸期は山に脅迫しに行く輩もいて危険な仕事だった。こういうことが、「日陰者」の存在という観を増長し、伝承がされなかったとも言える。旗振り通信社というのができたのが明治時代。旗振り師として雇われるシステムが確立した。

2.旗振り通信の再現実験(TV録画)

■再現実験の前に入念な現地調査

 西宮の吉井正彦氏(当時会社員、元国立民族学博物館客員教授)が昭和55~56年に兵庫県の旗振り山を全部探そうと現地調査をした。旗振り通信終了後70年で、当時80~90歳の人でないと知らない。早く取材をしないと歴史が消えてしまうと、あせってやった。大学生中心の西宮ボーイスカウトグループが古いルートを実地調査し、20の旗振り場を全部探しだした。
 旗振り通信を覚えている人にインタビューもした。明治37~38年頃、金ヶ崎では当時梅林だった奥の方に小屋があり、望遠鏡で見て旗を振っていたという。この時、遠眼鏡も見つかった。

■スモッグに阻まれた再現実験

 昭和56年(1981)12月、彼らは大阪から岡山
の27の中継点(2倍の中継点を設置)に50人を
配置し、旗振り再現実験を行った。2時間20分後に岡山に届いたが、神戸の間でスモッグが酷く、金鳥山では鉄塔に身体を縛りつけて通信したが全く見ることができず無線でつないだ。明石
からは岡山まで順調に通信できた。空気の透明度が昔と全く違う。江戸時代は20km先まで一気に抜けたが、現代の空では5kmくらいでようやく通るのではないか。

■正確に送るのは相当難しい

 昭和59年(1984)、NHK番組「ウルトラアイ」で大阪-神戸の再現実験を行った。堂島から武庫川堤防-金鳥山-諏訪山経由神戸港で、高層ビルで中継し、ビルの中を反対側に走り抜けたり、短く中継地点を作ったので24分程度で伝達ができたが10円もの誤差がでてしまった。昔の伝達技術がいかに高かったかを示すものとなった。

3.六甲山の旗振り山の紹介

■六甲山付近に旗振り山がいくつもある

 旗振り山を地図上にプロットした(前ページ写真)。堂島から、諏訪山、高取山、栂尾山、須磨の旗振山、明石の畑山というふうに西に抜けていった。

■金鳥山は旗振り場がよくわかっている

 保久良神社裏の金鳥山の送電線鉄塔からちょっと下がった平地が旗振り場である。日地出版(ゼンリン)地図「六甲・摩耶」の著者のひとり・佐野悦男さん(元教員)が、「昔、崩れた小屋があり旗振りさんが旗を振っていたと教えられた」と証言している。今も何の標示もない。案内板がある所は神戸では有名だが、案内板がないと忘れられている。

■伝承が途切れた神戸の旗振り山

 旗振り通信の終了後70年経ち、伝承が途切れている。諏訪山、高取山、須磨の旗振山は記録が残っているが証言者はゼロだ。一方、神出町の旗振山では須磨の山から信号が来ていたとの証言がある。明石金ヶ崎でも高取山を望遠鏡で見て通信していたという。
 山口町の畑山は昔は旗山だったが、由来が忘れられてしまい、耳で聞いて畑山になった。灘区・坊主山の南端・大阪台は『プレイランド六甲山史』の序文に旗振り場と出ている。文献では御影で旗振りが行われたとあるが、大阪台だった可能性もある。裏づけは難しいが探索を続けたい。

質疑応答

明治期で商工名鑑に仕事や会社が残っていることはあるか?
 会社は分からないが,ある。「豪商新兵湊の魁」図で取引所の屋上で旗を振っている。
職業名は?
 旗振り師、正式には旗振り通信員。

講演のまとめ(柴田さん)

 オリジナルの情報は大切と思っている。誰もやってないからやる。みんなの知らないことを情報
として発信したい。旗振り山は本当に忘れられた歴史だ。著書には新たに30箇所以上の追加が必要になった。今後も探索を続け、情報として発信したい。

事務局より

 旗振り山に関して、オンリーワンのオリジナリティを突き詰められる姿勢には感銘を受けた。消
えて行くものにも今に伝えて活用すべき大切なものがあるのだと主張されている、と受け止めた。我々の活動にも生かしていきたい。