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市民セミナー報告書より

雨の六甲山で今後の展開を検討

 六甲山は気温も8℃と高く、あいにくの雨模様でしたが、環境整備ボランティア13名と体験会の西山ファミリー4名の17名が集まりました。全員で”まちっ子の森”づくり
の下見を行った後、参加した牛飼さんが自然学校を運営している元・葺合高校六甲山学舎を訪問しました。薪ストーブで歓待されて、今後の協力・連携について話し合いました。

会社人間が地域貢献するモデル事例

 講師をお願いした堤 健さんをはじめ、「梅一つ火会」の皆さんは、神戸市シルバーカレッジの卒業生・在学生で東灘区在住の方です。大手企業で部長職を勤めたという共通点も持っておられます。
 民間企業で高度成長期を支えてきた方が、定年退職後のセカンド人生をどう過ごすか、社会的にも大きな課題でしょう。地域に貢献する目的で、持てる能力をうまく発揮し、地元の定住者との協力関係を築いておられる実例がここにあります。「岡本の梅」を復活するという大きな構想を持って、着実なステップを踏んで地域の信頼を得ている活動に注目しました。

「岡本の梅」復活を地域の文化に高める

 シルバーカレッジの9期生仲間が「何か地域の役に立つこと」に取り組もうとしたのが発端です。次々とシルバーカレッジ卒業生・在学生を巻き込んでいく、仲間づくりは巧妙です。衰退している「岡本の梅」を復活するという着眼は地域文化の復興につながる絶好の課題です。
 歴史のある地域の定住者にとって、定年退職者は漂泊の民に近く、地域に入り込むのは難しいものです。堤さんたちは、地域団体が苦手にしているホームページ制作を引き受けて好評を得るとともに、パソコン教室を運営することで、地域の高齢者の支援を続けています。このような布石の数々に感心します。
 「岡本の梅」の復活については、東灘区に働きかけ、区内の梅の数を調査しています。「梅図鑑」や「梅まっぷ」を制作して区民に配布するなど、広報活動も注力しています。そして「摂津岡本梅まつり事務局」の役割を引き受けるようになり、「梅いっぱいプロジェクト」と連携する活動に広
がっています。自分たちの身にあった活動に留めようとする堅実さを重視しつつ、周囲から寄せられる期待の拡大に対してどう対処されるか、今後の展開に関心が募ります。

108回の締めくくり

 今回で9年間毎月開催してきたシリーズをいったん締めくくりにします。来期からは新たな構想で年間4回のセミナー開催に注力します。会社人間が地域に根を下ろして、地域文化の復興を推し進めているという先進事例は、六甲山麓の魅力として全国に発信できるものです。堤さんに素
晴らしいトリの講演をしていただき、感謝いたします。

講演の内容

講演の挨拶(堤 健さん)

 梅一つ火会の堤です。東灘でかつて有名だった「灘の一つ火」と「岡本の梅」から会の名前を
命名しました。「岡本の梅」の復興を目指して地域社会に貢献しようと活動しています。

1.会社人間の知恵を地域社会に生かす

■地域社会との断絶を埋めたい

 神戸市シルバーカレッジ生活環境コース9期の東灘区の同期がたまたま9人いて、飲み会の席で、「定年して仕事もせんと遊んでばかりおってもなー」と声が上がり、少しは地域に貢献したいということになった。同年代の元サラリーマンは高度成長期の中でがんばってきた故に会社人間となり、転勤もあって地域から離れてしまった。しかも、古い土地柄では地域のコミュニティが堅固で
すんなり入りにくいこともあった。

■コミュニティのホームページ作りで貢献

 2004年、地域貢献の最初として、地域の人には難しい東灘区ふれあいのまちづくり協議会のHP立上げを担い、HP運営できる人材の育成のためマンツーマンのパソコン教室も実施した。
これで地域のコミュニティのトップやキーマンと人脈ができ信頼されるようになった。

■ビジネスで培った力で梅まつり事務局を担う

 2011年から摂津岡本梅まつり事務局に入った。梅祭りで震災当時から動いた組織が解散して、地域の人がもっと入る組織に再編された。地域の方々、商店街、梅一つ火会が中心になり今年から運営を始めた。サラリーマン出身者は組織運営に長けているので組織運営のリーダーもサポート役もこなせる。ビジネスで培った能力が生きてきた。

2. 梅を核にした地道な取組み

■岡本の梅は天災・戦災・人災で廃れていた

 梅は南部(みなべ)が有名だが、それは昭和40年以降のこと。岡本では羽柴秀吉の観梅(山本梅岳の岡本梅林記)、寛政8年(1796)の摂津名所図絵・岡本梅花見図(表紙写真)のように、古来から有名で江戸時代には「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」といわれるほどだった。明治には、東海道線住吉駅や阪神青木駅から多勢の人が見に来た。当時の岡本梅林は、住吉川-保久良神社の間、今の阪急線から上で、25~26軒の農家が梅を作って花の季節には開放した。
 昭和13年、阪神大水害で十二間道路と住吉川の間が全部流され、昭和20年、神戸大空襲では焼夷弾の火が山側に流れ保久良神社一帯まで燃えてしまった。戦後は住宅開発で壊滅的な打撃を受けた。 

■地域が梅の復活に動き出した

 昭和46年、宮崎市長の時代に渦が森の団地に三角公園を作って梅が植えられ、昭和50年には保久良神社西に250本程植えられた(保久良梅林)。昭和57年には岡本梅林公園を作り120本植えられ、復活の拠点ができた。その後、細々と進んでいたが、地域の方が阪神淡路大震災からの復活を目指し、摂津岡本梅まつりを開催して動きだした。2004年、東灘区の花・梅の普及ということを旗標に梅一つ火会も動きだした。 

■梅との出合いはタウンウォッチング

 シルバーカレッジの課題・タウンウォチングで地域を歩いて岡本の梅の現状を調べて提言す
ることを取り上げた。区の花が梅なのに梅がない東灘区役所の前に梅を植えることを目標に設
定した。寄付を集めて区長に交渉して初めて梅を植えた。 

■足で調べて目標設定し梅の寄贈を続ける

  2004年に東灘区の全ての公園の梅を調べ、44箇所1071本を数えた。さらに、私たちの今年の調査で昔は6千株あったのが分かった。
 阪神の鉄道唱歌「深江をすぎて青木より 八町入りたる岡本に 春つげそめて咲く梅の 花は紅白一万株」から、1万株を数値目標とした。寄付を年10万円集めて1本5 万円の10年成木を2本づつ植えるのを8 年続けている。私たちの他、地域の団体、商店街等がどんどん増やして、年平均166本づつ増え、2012年現在、2131本になった。50年で1万本になるペースだ。梅1万
本になると岡本は「梅の香がする街」になる。

■梅の普及活動に地道に取り組む

 2007年に梅ものがたりを作って区民に配布した。地域の方の想いや意見を書いていただき、
編集は私たちのパソコン能力でやった。2008年から梅写真展を区民センターで開催。花のない
写真も地域の人はよく見ていて「あなた写ってたね」と言ってくれる。梅図鑑は岡本梅林公園の梅
の種類を全部収録した。2007年から梅剪定講習会を開催し勉強している。今年は梅まっぷを作って梅祭で梅ガイドをした。毎年続けるので私たちへの信頼感が高まっている。

3.梅のトライアングル構想

■梅いっぱいプロジェクトに参画

 3年前、阪急岡本駅近辺の岡本商店街組合が、かつて岡本特産だった梅干し用「重五郎梅」の復活運動(岡本の梅ブランディング事業)を推進し始め、私たちも連携をとっている。
 今年、東灘区役所が梅いっぱいプロジェクトを開始した。魚崎では住吉川の魚崎橋の周りに20本植樹され、5年で100本まで植えていく。梅は植えたら3年は、水やり、剪定、害虫対策、施肥等の管理が必須で、植えるだけでなく管理する人を一緒に育てる。こういうグループを東灘区で5つ以上作って5年間で500本の梅を植え、地域の方が管理を担う計画だ。
 1万本の目標達成には、梅1本3万円とすると2億の金が要るし、梅5本を1人が管理とすると
2000人梅の管理できる人が要る。その資金調達と梅の管理者育成が始まった。区では5年間かけて500本の梅を2号線より南に植え、私たちは上で展開しようとしている。そうすると、各地
域でグループが育ってきて、その人たちと梅一つ火会と地域の人たちとが連携して東灘区の梅を守る大きな組織体ができてくる。1年前は構想だったが、5年間のプロジェクトが進行し始めた。

■小学校の教室で区の花「梅」を育てよう

 小学校の13教室にポットの紅白の梅が80
セット配られた。「育てる途中で疑問があれば梅一つ火会が答えますよ」として動いている。東灘
区の全学校に配布して、再来年には子ども達がクラスで梅を育てて、春、咲き終ったら自宅に持ち帰り家で育てる。そうすると梅に対するイメージが変わる。「地域の梅」になるのを期待している。

■梅の香のする街づくり

 観梅者が多くなると当然ながら地域住民にはうるさいという人もいた。その問題を解決するため、地域の人にも入ってもらう組織に編成し直した。地域住民の説明会もやり、園内への導入の仕方までいろんな手を打った。その結果、地域からのクレームは1件もなくなった。逆にもっと活
性化しよう、店を増やせとの声も出始めた。地域の方々や行政と一緒に梅の香のする街づくりをしていく。

質疑応答

■梅博士はいるの?
梅博士は聞いたことない。図鑑もあまりない。梅は思いで命名される。
■理想的な運営ステップだが苦労は?
苦労はあまりないが、メンバーへの分担、地域への展開が必要。地域の人が動く体制はしっかりしているし、すばらしい能力をもった人もいる。

まとめ(堤さん)

 シルバーカレッジ9期が中心になって始めて今が18期、新しい人に渡して行くのがこれからの
課題だ。10年目にはきれいに渡していく。50年継続できると、梅の香のする街づくりができる。

事務局より

 酒の席で「梅、調べてみよか」と始まった活動が、「岡本の梅」文化を造り始めるまでのプロセス
は圧巻だった。梅の香のする街はまさしく岡本独自の文化だ。地域に働きかけ、文化を担う市民を多勢育てていただきたい。我々の活動も自然を享受するだけでなく、森づくりの文化を造ることなのだと改めて思った。